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出番の牛も縁遠く

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 年が明け、暦では牛の出番。12年に1度、必ず主役が回ってくる牛も、いまでは人間とは縁遠い動物になってしまった。昔はもっと身近だった。
 上のモノクロ写真で子牛にまたがっているのは半世紀以上前の、小学生の私である。左は伯父。満州生まれで横浜育ちの私には田舎がなく、父親の茨城の実家へ夏冬遊びに行ったものだった。
 伯父は終戦で海軍を失業し、茨城に戻って百姓を始めたから、零細な農民だった。それでも牛を飼っていた。当時の農家としては当たり前だったのだろう。
 農村では牛馬は貴重な家畜だった。広い田畑は人力ではとても鋤き切れないから牛馬に引いてもらう。しかも餌は畑で作ったトウモロコシや草などで賄い、糞は堆肥に使う。労働力も餌も肥料も自給できる理想的な営農形態なのだ。
 私がいま百姓をしている山梨の集落ではどうだったのか。長老に聞くと、農耕牛は昔からいなかったらしい。小さな棚田ばかりだから家族労働で足りたのかも知れない。だが、「戦後しばらくまで、お宅の東の家に馬がいたよ。木を運んだりしていた」と言う。なるほど、山仕事には必要だったのだろう。
 遠い昔から農家の一員として農村風景に欠かせなかった牛馬は、農業機械や化学肥料に取って代わられた。私の集落でも、小さな田んぼに大型機械が這いずり回っている。
 美空ひばりのファンならご存じと思うが、ひばりが生まれた横浜の下町は、小さなトタン屋根の家が密集する地帯だった。私も同じ町で育った。
 そんな町の一角にも当時は牧場があって、10頭ほどの乳牛が牛舎に並んでいた。家に病人でも出ると、1升瓶を持って牛乳を買いに行かされたものだった。いまはもちろん跡形もない。
 一面に広がる田んぼを背にした牛と私の写真は、農村の原風景への郷愁を誘う。いま、その背景には高速道路が荒廃農地を貫き、視界を遮っている。

400円で極楽気分

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 寒い夜を温かく過ごすには、温泉が一番。便利なことに、自動車で5分ほどの所に町営温泉がある。300円だった入館料が11月から400円に上がったが、東京の銭湯450円よりまだ安い。
 たまに登山帰りの客も見られるし、我が家でも宿泊客があると必ず案内するが、利用客は町内の人が圧倒的。普通の浴槽のほかに源泉、寝湯、露天風呂、 サウナがあって、近所の老夫婦は昼前から夕方まで、休憩室で昼食を取ったり昼寝したり、顔見知りと情報交換したり。3時間以上の入浴は700円になるが、半日をゆったり過ごせる。
 風呂嫌いだった私も湯治気分の家人に付き合って、1時間半も館内にいるのが普通になった。帰宅して囲炉裏の炭火にあたりながら飲むビールがうまい。
 家にも風呂はある。前の住人が残していったプロパンガス式。温泉のお陰でほとんど使わないので、電源のプラグを抜いたままにしておいた。これが大失敗。
 冬になって、外に置いてあるボイラーの水が凍り、爆発してしまったのだ。プロパンを使うのは初めてなので、電熱で凍結を防いでいるとは知らなかった。風呂を使うこともないわけではないので、湯が出ないのは不便。そこで釜を交換したら、30万円近くかかった。高くついた無知だった。
 温泉で1つだけイヤなことがある。湯水のごとく湯を使う人だ。洗い場に陣取ると、まずシャワーの湯で鏡から棚から床から、周囲1m四方を丁寧に洗い流す。体を洗っている間もシャワーは出しっ放し。
 「油の1滴は血の1滴」と聞いて育った戦中世代ではないが、省資源を心掛けている積もりの私には、精神衛生上よくない。以前は「それ、もったいないですよ」と注意したこともあるが、言われた方とすれば余計なお節介だろう。
 地元の温泉は地域共同体の縮図。いろいろな人がいて、いろいろな価値観と行動様式があって当然なのだと、今は思うことにしている。

主なき屋敷に黄金の恵み

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 家の近くに、木立に包まれた大きな屋敷がある。日本中が貧しかった戦後、高級米車キャデラックを乗り回すほどの金持ちが住んでいたらしいが、今はなぜか空き家になって荒れるにまかせている。
 昔の子供なら「お化け屋敷探検だ」などと言ってこっそり入り込みたくなるようなたたずまいだが、私にとっても秋の楽しみのスポット。朽ちた塀から枝を張り出したイチョウの大木が、黄金色の実を落とすからだ。主のないギンナンを放っておく手はない。
 もちろん、この名所を知っているのは私だけではない。実を踏みつけて種を取り出し皮だけ残していたり、ゴム手袋が捨ててあったりする。それでも拾われるギンナンより落ちる方が多いから、いつでも拾える。
 山梨に家探しをしていた6年前にも、中央線のある駅前で大量のギンナンがタクシーに踏みつぶされているのを見て、夢中で拾い集めたものだった。
 都会では、こうはいかない。東京の家の近くの公園に、実のつくイチョウが2本だけあり、朝夕散歩の高齢者が3つ4つと拾い集めるのを楽しみにしているようだった。ところがある日、3人の男女が下にビニールシートを敷き、1人が木に登って枝を揺すっていた。白昼堂々ギンナン独り占めの、寒々とした光景だった。
 無人屋敷の収穫は、今年もそこそこにあった。東京に持ち帰り、暇つぶしにひなたぼっこしながら種を取り出し、天日に干す。においが嫌だったり、かぶれたりする人もいるらしいが、私はなんともない。
 自分で取ったギンナンはデパ地下で売っているような大粒ではないが、田畑での収穫と違って種をまくわけでなし、肥料をやるわけでなし、一方的な恵みだからありがたい。誰に感謝したらいいのだろう。
 食べる時、以前はペンチで殻を割りフライパンで炒っていたが、そのまま紙袋に入れて電子レンジで焼く方法を友達から教わった。なるほど簡単。殻の下の鮮やかな緑色と独特の香りに、冬の到来を感じる。

エコ活動はドイツから

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 冬空の日曜日、町内の公園広場で恒例の町民まつりがあった。いつもは人影まばらな土地柄だが、この日ばかりは新宿並みの雑踏が出現した。
 私も家人と出掛けた。農業団体、地域団体、地元高校などが農産物や手作り商品の出店を並べ、ステージでは子供たちのヒーローが跳ね回ったり、郷土芸能が演じられたり。しかし、最大の呼び物は長い行列に並んでありつく1杯100円のほうとうだった。
 太いうどんのような麺をカボチャなどたっぷりの野菜と煮て味噌仕立てにした、山梨を代表する伝統食。まつりでは、石川五右衛門が3人浸かれるほどの大釜で3000人分が作られた。
 そのジャンボぶりよりもっと自慢できるのは、何度でも洗って使うリユース食器を採用していること。
食べる前に200円払い、食べ終わってポリプロピレン製のどんぶりを返すと、100円玉が戻ってくる。100円をどんぶりの保証金として預けるデポジット方式だ。イベントに付き物の使い捨て食器は追放されていて、もったいないゴミが出ない。
 このリユース食器は町内のNPO法人が貸し出し、回収、洗浄を引き受けている。導入のきっかけは、ドイツ在住の環境ジャーナリストの講演だった。
 ドイツでは大きなイベントで使い捨て食器が見られないという。私の妻子も昨秋、ミュンヘンの有名なビール祭り「オクトーバーフェスト」を訪ねたが、その写真を見ると、確かに全員がガラス製の本物のジョッキを手にしている。
 「いいことは採り入れよう」とNPO法人は早速、環境問題に理解が深い企業や町の協力を得てレンタル事業を始めた。今では全国各地に広まっているが、日本での発祥の地はわが町なのだ。
 こんな田舎町での小さな実践が全国に広がるとは、日本もまんざらでない。そして、まつりのほうとうは「地産地消」の食材に「エコ」という味付けがされていて、身も心も温まる。

マイタケが庭で採れた

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 10月末の朝早く、東京の家で留守番していた家人から電話があった。こんな時間の着信音にいい予感はしなかったが、受話器からは弾んだ声。「何とマイタケが出ている。手のひらぐらいのが!」
 山で見つけると踊り出すほどうれしいというから「舞茸」。それが我が家の庭で採れたのだ。東京に戻って量ってみると140g。踊り出すほどの収穫ではなかったが、うれしくないわけがない。
 このマイタケのルーツは、3月初めに町が開いた原木栽培の体験教室。私は参加できなかったが、マイタケづくりの難しさは後で聞いた。20cmほどに切ったコナラの原木は8時間も煮沸して殺菌したという。マイタケ菌を植える当日、参加者は納豆を食べてはいけないし、作業時は服の上からレーンコートを着せられたという話だ。
 こうして接種した原木は温度、湿度、換気、光に気を付けながら培養しなければならない。私は、町の施設で培養され白い菌糸で覆われたほだ木3本を7月中旬、安く譲ってもらった。教わった通り、日の当たらない柿の木の下を掘って埋め、5cmほどの土をかぶせておいた。
 スーパーなどで売っているマイタケは、栄養を添加したおがくずを使って室内で栽培されているらしい。冷暖房で温度を調整し、年に5~8回転の栽培が可能だという。こういう空調栽培に比べ、原木栽培は「肉質が充実し、傘の色が濃く、香りも強くなる傾向」と専門書が解説している。
 庭で採れたマイタケには、鍋の主役になってもらった。確かに普段食べているマイタケに比べて肉が締まって厚く、手応えのある歯ざわり。家人は「マツタケみたい」と言う。1回限りの豪勢な晩餐になった。
 今年の収穫は少なかったが、このままほだ木を埋めておいて乾燥させないように注意すれば、3年間ぐらいは同じ時期に発生するという。米作りを終えた後の楽しみが1つ増えた。

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